2019/07/01
雉編集室 エッセー 70
石井和子

 『「庄原文芸」誌より』

 六月の初め、思いもかけず第47号の『庄原文芸』誌をいただいた。
 表紙の水彩画にはじまり、小論、随想、俳句、短歌、川柳、現代詩、小説と多彩な文芸総合誌であった。
 最終は特別寄稿で産婦人科の医師のエッセイであった。小論は教育論、特別寄稿は病院での未成年者の妊娠や死産などに視点を当てた作品であった。
 一冊の中に自然豊かな庄原の風を感じさせていただいた。俳句をする私には短歌や川柳の切り口がおもしろく参考になった。
 林氏は、編集後記に「人口減少と高齢化の進む環境の中であっても、自問自答しながら、この文芸誌を編むことに熱い情熱をかけている」と書かれ私は心を打たれた。


佐保光俊

 『東海道鈴鹿峠』

 近江のかつての主要街道を歩いている。滋賀県内の東海道といえば、古代より鈴鹿峠を越えて三重県に出る道だと思い込んでいたが、調べて見ると、それは間違っていた。その時代の都の置かれた場所と伊勢神宮との位置関係で、三重県に出る東海道の道筋は、変わっていたのである。話は少し逸れるが、東海道というと、道筋のことだと思っていたが、実は、特定の行政区域とそこを通る道の二つの意味があることも、初めて知った。奈良県に都が置かれていた時代は、東海道は滋賀県を通過することはなく、鈴鹿峠よりもずっと南を通って、奈良県から三重県に抜けていた。都が京都に移ってからも、当初は、東海道は鈴鹿峠よりも南の倉歴越を通って滋賀県から三重県に抜けていた。その後、天皇の即位に際して伊勢神宮に派遣する斎王の群行なども考慮し、西暦886年に鈴鹿峠を越える阿須波道を官道と定めたのが、江戸時代まで続く東海道の始まりだという。もちろん、いずれの時代の東海道も、軍事上の必要性から鈴鹿関を通過していた。ちなみに、関東という言葉は、鈴鹿関よりも東を意味していたらしい。東海道本線も東海道新幹線も鈴鹿山地の北側を迂回していることからも、鈴鹿峠あたりがいかに難所かが分かる。中世まで、鈴鹿峠は山賊の横行する地であったことが、記録に残っている。


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